hanayuukaの日記

適当に日々思うことを書いていきまっす!

私の3.11の記憶-震災から10年目-


3.11の大地震から10年経ったいま、世間やニュースでたくさん騒がれている。

10年経った今でも目をそらしたくなる情報ばかりで怖かった記憶が蘇ってきた。でもこのような節目の時しか思い出さないくらい震災のことを忘れてきているので、このブログで書き残しておこうと思う。

震災当時の私は青森県に住む13歳の中学1年生だった。卒業式の予行練習を終えてクラスでホームルームをしていた。学校の授業が終わってあとは卒業式をして春休みがくる〜って浮足立っていた。

14:46

「あっ、先生地震だ!」と1番最初に教室で気づいたのは私だった気がする。そしたら段々揺れが大きくなってきて、先生が机の下に隠れて!という合図でみんな一斉に机の下に隠れた。

揺れが収まってから、先生の指示で机から各々出てきたがこんなに長い揺れを経験したことがなかったし、停電して暖房も切れてしまったのでみんな心配そうな顔をしていた。

当時の私の担任は地学に詳しい先生だったので、「これはまずいな〜、震源はきっと岩手県宮城県辺りだろう。ここでこれくらいの揺れなら、そっちの地域では震度6強くらいだろう。」とほぼ何も情報が無いのにそのように予測していた。

私はその先生の言葉を聞いた瞬間、絶望感に襲われた。なぜなら、お母さんとおじいちゃん、おばあちゃんは宮城県に住んでいて、家が築何十年もの古い家でおばあちゃんは自分では動けない要介護者なので、家が潰れて死んじゃったらどうしようと思ったからだ。

教室で私1人だけ、どうしようどうしようってパニックになって先生に泣きついてた。「まぁ、落ち着いてみんなで集会だ。」となだめられて、急遽体育館で全校集会をした。全校集会の内容は全く覚えていないが、終わった後集団下校をしたような気がする。

 

帰宅し、お母さんに電話をしようとしたが回線がパンパンで繋がらず、安否を確認するためにメールを送った。その頃でもまだ電気が戻っておらず、段々暗くなってきた。

その日の夜ご飯は、ガスコンロで炊いた米を食べた。炊飯器以外で炊いたご飯を食べたことがなかったので、直火で炊いた米がこんなに美味しいということを初めて知った。ロウソクの火で灯された食卓は異様で寂しい気がした。

ご飯を食べ終わった頃にお母さんからやっと無事だというメールの返信が来た。やっと安心できたので、急に疲れが出てきてすぐに寝てしまった。

 

次の日起きてもまだ電気が戻っておらず、だんだん家が寒くなってきた記憶がある。いつまで戻るかわからないので不安だったが、その日の15時頃にやっと電気が戻った。

電気が戻ったので、テレビを付けてニュースを見て衝撃を受けた。

家や車、人を巻き込んだ津波の脅威を初めて目の当たりにし、福島県では原発が爆発したのだ。同じ東北でこんな悲惨なことが起きていたなんて正直信じられなかった。

お母さんの実家が宮城県なので、遊びに行ったときたまに海に行っていた。馴染みのあるその風景が津波によって崩壊しているのを見てしまった。

ニュースを見ていたら、鳥肌が立ち気持ち悪くなってきたのを覚えている。

 

私の地域は比較的地盤が固く揺れが小さく、被害がほぼ無かったので4月には普通に新学期を迎え不自由なく学生生活を送っていた。

だいぶ世の中が落ち着いた頃、お母さんに会いに宮城県まで遊びに行った。

その時、お母さんが千本松があった場所まで連れて行ってくれた。着いて驚いたのが、たくさんの松が連なっていたのが一本を除いて全て無くなっていて、松の高さまで津波が来たのかと思うと恐ろしかった。車から降りて少し歩いてみたが、壊れた靴や食器などがいたるところに落ちていて、家の土台だけが残っていた。そこに住んでいた人たちの生活を想像してしまい、自然に涙がでてきた。

ここに住んでいた人たちはどんな辛い想いをしていたんだろう。私が不自由なく学生生活を送っているあいだどんな気持ちで過ごしてきたのだろう。と改めて考えさせられた。

世間では一本だけ生き残っていた松は希望だと言っていたが、私はとても寂しく感じた。

記憶を繋いでこのブログを書いていたが、書いているうちに胸が痛くなってきた。

10年経って、記憶が薄くなってきているのを実感し、これは忘れちゃいけないことだと改めて思った。

次いつ地震が起きてもおかしくないので、この恐怖を糧にこれからやってくる地震の前にできるだけ対策をし、一人一人が自分自身の命を守る行動を身につけていかなければならない。