アメリカの現地校に2ヶ月間通ったお話
最近書くことがないな〜ってゆう理由を付けてブログの更新が遅れてるゆーかです🤪
今回は私の過去のお話になるのですが、親の都合で小学生のある2ヶ月間だけ突然アメリカの現地校にぶち込まれたお話しをシェアしていこうと思います!!
お話は私が小学4年生の時です。
小学生の頃の私はだいぶ内気で友達に嫌なことを言われたらすぐに母親に泣きつく弱い女の子で、怖いものには手を付けないし、片時も母親から離れない甘えん坊さんでした🥺
そんな子が、突然アメリカの現地校つまりアメリカ人しかいない小学校にぶち込まれて大丈夫!?って思いますよね、、
それが私の人生で吉と出ました😂🤘
母親が英会話教師で、生まれた時から英語はちょくちょく教えられていて
洋画を見るときは日本語吹替版を一切見せてもらえなかったり、洋楽ばっかり聴かせられたりしていてだいぶ英語には慣れていました。
うんざりするぐらい毎日英語に触れさせられていて、半ば強制的に英語と触れ合っていたので当時の私は英語が嫌いでした。
だから、せいぜい「l'm hungry.」とか「I want to play.」とかそれくらいしか話せないレベル😇
今となってはもったいないなって思います、、
アメリカの小学校にぶち込まれた初日にママに教えてもらった言葉は
「Where is bathroom?」(トイレどこですか?)のみ。笑笑
これだけ覚えておけばトイレだけ漏らさなくて済むから大丈夫でしょ!って言われたのを今でも鮮明に覚えてます😂
初登校の日はめちゃめちゃ緊張したし、最初のうちは周りの子から“何この言葉通じないアジアンピーポー”って顔されるし、本当に憂鬱でした。
それでも、小学生ながら一生懸命気持ちを伝えようと頑張っていたら、なんとか友達が2人できました!
1人はバリバリ白人ブランドのハンナちゃん。もう1人はエチオピア出身のエツちゃん。
なんで言葉通じないのに仲良くしてくれたのかは謎でしたが、授業移動を一緒にしてくれたり、昼ご飯を一緒に食べてくれたりしました。
日本人って可愛いね!って言ってくれたり、カフェテリアの使い方を教えてくれたり、本当に優しくしてもらいました🥺
ある日、私はハンナちゃんの誕生日パーティーに招待されました!夜遅くまでパーティーするからお泊まり確定です。
もう、その時の自分は不安とか何もなくむしろウキウキで参加している裏腹、母親は私の行動の変化に驚き、日本語を話せる人がいない環境に自ら入っていった私の成長を感じたそうです。
夜更かししてみんなで食べて騒いで、小学生の自分には刺激が強く興奮してた覚えがあります。笑
何事もなくパーティーから朝帰ってきた私は、日本の小学校では味わえなかった楽しさに浸っていました☺️
私の物怖じしない性格とフッ軽さはここから発生したのだと考えられます。笑
授業は大丈夫だったのか、、?
それがなんとか大丈夫で
多分みんなより課題を多く家に持ち帰って、母親と一緒に勉強していたのでなんとか授業についていけました。
算数が日本の小学校より進んでいて、ちょっと難しいことを先にやっていることに対して優越感を得たりしていて、何気に勉強は楽しくできていた気がします。笑
当時も今も変わっていないのですが、英語そのものを学ぶのは私的に好きではなく、英語を手段として使うために勉強することが好きなのかなって思います。
登校最終日には、クラスみんなと仲良くなっていました。
クラスメイトとお別れするとき、ひとりひとりとハグしたことは今でも忘れられません。というのもその時初めて同世代の男の子とハグしたのでびっくりしてしまったのだと思います😂
2ヶ月間だけだったけど、みんなと離れるのは寂しかったし、もう少しアメリカに残りたいという気持ちがありました。
多分、生まれて初めての感情だったと思います。
帰国してから元の小学校に戻った私は浦島太郎状態で、すごく不思議な気分でした。
クラスメイトに私が居ない間、何かあった?って聞いてもゆーかちゃんが居なかったから教えない〜って言われたり、いきなりアメリカに行く子なんて私以外だれもいなかったから、異質な人として扱われたりしました。
アメリカでの2ヶ月が濃く楽しかった反面、日本の小学生の考えの狭さとか異質なものを受け入れない考え方にはうんざりしました。
強くなって帰ってきた私は、そんな風に扱われても泣かなかったし、みんなが経験できないことを乗り越えたので、だいぶたくましくなっていました😇
いきなり私を2ヶ月間アメリカの現地校にぶち込んだ母親に当時は腹が立っていましたが、今は感謝でしかないです。
ぶっ飛んだことをしたい精神と新しい世界に飛び込みたい精神はここから来てしまったのかもしれません。
小学4年生の自分、よく頑張りました👏👏
ありがとう!!笑